欣浄寺

寺院の歴史

二村山法蔵寺の本寺にて、浄土宗西山深草派に属し、山号を「林光山」、院号を「厭離院」、寺号を「欣浄寺」と称する。

法蔵時第8代融翁洞文上人は永禄5年(1579年)より18年間在住したのち、齢53歳をもって、天正7年(1579年)、洞元山の麓に庵を結んで隠栖した。ここは、鉢地川を隔てて法蔵時本堂が正面に展望できる閑静な地で、念仏三昧の隠居生活には絶好であった。これが欣浄寺の始まりである。

この草庵は何度も火難に遭い再建するも、東海道が開かれたのちは、庶民が参拝するのに不便な地であるので、享保7年(1722年)、第7代啓空序麒西堂は街道沿いの十王堂近隣の現在地に移転し、堂宇を再建した。このころ、幕府旗本柴田家は信仰篤く、5代にわたる位牌を当時へ安置している。

文化年間(1810年頃)第24代常空貫善上人は寺子屋を開設し、読み・書き・算盤を教えた。大学者であった第29代禎空祥善上人も寺子屋の師匠をつとめ、明治3年に廃止するまで、60年間にわたり、庶民の教育が行われた。岡崎市立本宿小学校の前身である將明学校は明治5年(1875年)、この地に開かれた。

近隣の十王堂との結びつきも強く、禎空祥善上人は、弘化3年(1846年)本尊地蔵菩薩を再興し、衣香寺開山と称した。

第30代愛空寵禅上人は裏山を寄進し、広大な境内地となった。大正4年(1915年)には、裏山に弘法大師八十八か所霊場、圓光大師二十五霊場を開き、多数の石仏を安置した。

また、信者の奉納した「抱き地蔵」は霊験あらたかで、参拝者が絶えない。

戦後、本宿村公民館西分館を兼ねて本堂を再建し、十王堂が境内に移転された。さらに、位牌堂を建立して壇信徒の位牌を祀るとともに、本尊脇侍観音・勢至菩薩像を造立し、弥陀三尊仏となった。

旧本堂は、物資欠乏期の建築のため老朽化著しく、新たに元祖法然上人八百年記念事業として本格的な本堂の建築に至り、平成24年(2012年)3月24日に落慶法要と大遠忌を厳修した。

また、本堂資材を採取した裏山は、有縁の方々の植樹によって「桜山」となり、登山道も整備された。

旧本堂と旧十王堂